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若乃花 幹士(わかのはな かんじ、本名:下山 勝則(しもやま かつのり)、1953年4月3日 - )は、元大相撲力士、第56代横綱。引退後は年寄・間垣。師匠であった初代若乃花の娘婿となったが、後に離婚。大関時代までの四股名は「若三杉」だったが、横綱昇進を機に師匠の四股名「若乃花」を継承した(大関まで名乗った若三杉も当時部屋付きだった荒磯親方、元関脇若三杉彰晃の四股名を継承したものである)。青森県南津軽郡大鰐町出身。身長187cm、体重133kg。血液型はA型。現役時代の愛称は下の名前の勝則から「カンボ」と呼ばれていた。 == 来歴 == 元横綱・初代若乃花の二子山親方に見出され、浪岡町出身の高谷(のちの第59代横綱・隆の里)と同じ夜行列車で上京、二子山部屋に入門した。1968年7月場所初土俵。「朝ノ花」〔兄弟子の貴ノ花から本人の四股名候補であった「朝の花」を名乗るように勧められたのがきっかけであったという。〕と名乗っていた幕下時代から北の湖とならぶホープとして期待されたが、当時は土俵際で無理に残すことが多いためしばしばケガをしてやや出世が遅れた。とはいえ若三杉と改めて半年後の1973年7月場所に20歳で新十両、十両は2場所で突破して同年11月場所に新入幕、翌1974年11月場所には新小結で11勝4敗という好成績を挙げ、一気に大関候補と呼ばれるまでになる。 一時期肝炎を患って伸び悩んだものの、1977年1月場所には関脇で3場所連続の11勝4敗の成績を挙げ、場所後に大関に昇進した。大関時代は柔らかい足腰、切れ味鋭い投げ技で、北の湖・輪島全盛期のなかで活躍。実力と共に人気も急上昇してCMにも多数出演し、テイチクレコードからはドクター南雲(南雲修治)による応援歌「ソウル若三杉」がリリースされ、また若三杉自身もローオンレコードから「泣きぼくろ」で歌手デビューもした。大関2場所目となる1977年5月場所には13勝2敗で初優勝し、以後横綱昇進を期待される。 2場所連続で優勝同点(優勝決定戦の相手はいずれも北の湖)を記録した1978年5月場所後に横綱に昇進した。綱取り直前3場所通算の成績は40勝5敗であり、これは大乃国がタイ記録に並ぶまで単独の最高記録であった(現在は貴乃花の41勝が最高記録であり、若乃花は大乃国と共に2位タイ)。横綱推挙伝達式での口上は、「心技体の充実に務め、立派な横綱になるよう精進いたします。」というものだった。明治神宮での新横綱奉納土俵入りで、兄弟子の大関・貴ノ花が太刀持ちを務めたのは有名。貴ノ花ファンからは「かわいそうだからやらせないで!」という声が上がったが、師匠の二子山は貴ノ花に奮起を促すのと同時に、ファンサービスのために、あえて弟弟子の太刀持ちを命じたと言われる。前述通り横綱昇進とともに師匠の現役名である若乃花幹士を襲名、親方は部屋創設当時から自分の弟子で最初の横綱に名前を継がせると公言していたが、当の若三杉本人は全く知らず、決定後に聞いて「えっ、若乃花だって!?」と驚いていた。一説によれば本人は若三杉の四股名を大変気に入っており改名したくなかったとも言われる。 甘いマスクで人気があり蔵間と女性ファンの人気を二分しており、NHK相撲解説者の玉ノ海梅吉も大関昇進を狙っていた時期の若乃花を見て「かわいい顔しているじゃないですか」とその容姿を気に入っているかのような発言を度々行っていた。しかし横綱昇進後は北の湖全盛期と重なってどうしても二番手という印象が拭えず(優勝次点は輪島と並ぶ14回で史上1位、他に優勝決定戦での敗退が2回ある)、優勝回数は4回と少なく、初代若乃花ほどの活躍はできなかった。また、富士櫻を大の苦手としていた(横綱として最初の一番に敗れている)。それでも成績と相撲内容は安定しており、当時北の湖に次いで歴代2位の記録にあたる、通算(幕内)28場所連続勝ち越しの成績を挙げた(現在は武蔵丸・白鵬・北の湖に次ぎ、旭富士と並ぶ歴代4位タイ)。また幕内連続2桁勝利も23場所を記録している(当時歴代3位、現在白鵬・北の湖・大鵬に次ぎ歴代4位)。1978年には6場所合計78勝12敗の成績を挙げながらも北の湖が82勝8敗の成績を残した(当時の年間勝利数新記録)ため年間最多勝を逃すなど不運な面があった。北の湖との対戦成績は横綱昇進前は11勝11敗と五分だったが、昇進後は7勝14敗と差がついてしまった。一方輪島は逆で、昇進前は6勝14敗と大きく負け越していたが、昇進後は8勝5敗と勝ち越している。 輪島、北の湖に代表される、左四つを得意とする力士が全盛を極めた時代の一翼を担った。腕力はそれほどでもなかったが、廻しを掴んでからの安定感があり、体の柔らかさを生かした投げが得意だった。武器の右上手投げは左下手からの捻りとの合わせ技で、その切れ味も評論家から評価されていた。懐が深く波離間投げの奇手を見せたこともあった。一方で廻しを取れないと何もできない場面も多く、押し相撲の力士をやや苦手とした。横綱時代も度々立合いで変化する事があったため、神風正一ら、うるさ型の評論家から酷評された事もあった。また、勝負にこだわり過ぎる傾向があり、負けたときの悔しさを表情に出しすぎると批判されたこともある。締め込みが固い力士としても知られ、特に1978年5月場所14日目の北の湖戦で廻しをきつく締めて右上手を許さず勝利した〔昭和の大相樸第1巻 312頁〕。なお、あまりの廻しの固さに自身もその取組後に肋骨を骨折した。秋場所とは極端に相性が良く、1973年に初めて秋場所で15番勝負(つまり十両以上)を経験してから最後の秋場所である1982年まで10場所中9場所を2桁白星で終え、1975年は9勝6敗に終わったものの金星を獲得した。 1981年3月場所限りで輪島が土俵を去り、千代の富士が台頭してきた頃から肝臓病や頸椎捻挫・直腸周囲膿瘍などで休場が重なり、この年皆勤したのは1月場所と9月場所のわずか2場所だけだった。肝臓病は大の酒好きであったことに由来しており、1978年11月場所に肝炎を患ったが二子山に叱責されることを恐れて強行出場した結果15戦全勝での優勝を果たしたという逸話がある〔大相撲酒豪番付2014年東銀座場所 時事ドットコム〕。翌1982年に再起を目指し、5月場所には12勝3敗と久々に復調し、千秋楽まで千代の富士や朝汐との優勝争いに絡んだ。しかし、それ以外の場所は11月場所を除き皆勤するも、二桁勝つのがやっとの状態で、更に11月場所は持病の痔が悪化し手術のためにまたもや全休。翌1983年1月場所に進退を掛けて出場したものの満足な相撲が取れず、5日目の朝潮(朝汐から改名)に敗れ2勝3敗となった相撲を最後に、成績不振の理由により29歳9か月の若さで現役引退した。 1980年6月2日、故郷青森県大鰐町で古川武治作の木彫り像が完成、除幕式が行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若乃花幹士 (2代)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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